「大事件です.都心のど真ん中で人が殺されました.
被害者は,大阪府立大学3回生 鈴木雄也,,,」
とレポーターが言ってる声がパラパラと降ってきた.

 

 

 

遡ること,7時間前,梅田.
大阪有数ののオフィスエリアということもあり,スーツ姿のサラリーマンが多い.
その間を縫って,スーツ姿で通る.
スーツ姿に身を包んでいるのだが,中身は普通の大学生だ.
梅田のオフィスで働いているやり手の営業マンに見えるかもしれないと
淡い期待を抱きつつ,
学会の会場へ足を踏み入れた.

ここでも同じようなスーツ姿の人々が集っている.
しかしただのスーツ姿の人間ではない.関西中の高度な思考と理性を持つ,教育情報分野の精鋭達だ.
彼らが集ってできた社会に自分がうまく溶け込めているのか不安になるが,
同じスーツ姿であることにひとまず安堵する.

集合場所の関西学院大学梅田キャンパス14階1405教室.
ドッジボールくらいはなんとか行えそうな広さだ.
普段は関西中に散らばっている彼らが,この一か所に集まっているというだけで気持ちが高まった.
どんなすごい人達が来ているのだろう.好奇心から周りを見渡す.
スーツ姿で統一された彼らの特徴が掴めずに困り果てていると,
もう一人のリトル鈴木が吹き出し付きで,各々がどんなにすごい人か豪語する.
「あーー!!あいつは,〇〇大のケルベロスと名高い△△じゃないか!!
頭脳3つ分の知能を持ち,質疑応答で噛みつかれると,
この人だけで時間を食われてしまうと噂の!!」
「あっちには,〇〇大のメデューサ △△!!
自分に答えにくい,際どい質問をした者の目を凝視し,質問を取り下げさせると噂の!!」
「向こうには,〇〇大の,,,」
『た,大変ですぅーー!! あ,あいつらが!!生物分子学会の奴らが攻めてきました!!』
こちらも戦力を総動員して,戦争(暴力ではなく,知的な争い)勃発.
戦争が中盤に差し掛かった頃,
「えー,では.教育情報システム情報学会 学生研究発表会 開会式を始めます.」
と司会の一言で平和が訪れた.

 

 

かのように思われた.
すぐまた別のとこで戦争が勃発したのだ.
私鈴木雄也 VS 学会の出席者全員の戦争が.

ポスター発表,口頭発表,表彰式,閉会式.
発表者として議論をする時,他の人の発表を聞いている時.
また,気づかされた.”アレ”に.
”アレ”を持っていないことを隠匿する私と”アレ”を持っていることを誇示する彼ら.
その事実を隠匿している壁が会話を重ねるごとに少しずつひびがはいる.
ひびがはいっては直しての繰り返しである.戦争だ.

 

特に表彰式.
同期の正門和己が優秀発表賞を受賞して,彼が涙したのを見た時,
部活帰りにも関わらず,研究室に夜遅くまで残って,
先生方との議論で得たアドバイスを発表用のスライドに落とし込み,
口頭発表練習を繰り返していたことが脳裏に思い浮かんだ.
その時,強く気づかされた.”アレ”に.

 

 

 

 

 

 

 

そう.”主体性”に.

 

彼らと私の決定的な違いは”主体性”の有無である.
主体性がないと,あのような論理を突き詰めた発表はできない.
JSiSEを通じて.自分自身が主体性を持っていないこと,
つまり人として死んだ状態でただ肉体だけが生き続けていたことを
より強く認識させられたのだ.

 

 

 

死んでいる.

 

 

 

この死んでいる有り様が体から出てきて,
スーツをも侵食し,露見している気がした.
学会後,すぐにマスクを買い,マフラーを強く首に締めた.

彼らが至極羨ましい.彼らには,明確な目標がある.
学会の出席者に話を伺うことはできなかったが,
研究室で聞いただけでも,地位,お金,社会改革,名誉,親の期待の充足など,
各々の真理に基づいた幸せがあった.
その幸せに向かう手段として,研究そのもの,研究を通して得られる考える力,
もしくは大卒という学歴を手に入れようと主体的に生きているのだ.
だが私には,それがない.
自分の信じる真理,幸せがないのだ.
正確に言えば,なくなってしまった.

実は,人間として生きたことが2年半だけある.
それは高2の新学期に慣れ始めた春頃であった.
当時(現在もだが),人生で1番影響を受けた,
あるアイドルプロデューサーが初めてインターンを募集したのだ.
そこから,そのプロデューサーの元で働くという目標へ向けて主体的に生きた.
偏差値46という悲惨な状態から必死に勉強し,プロデューサーが求める学歴以上の大学へ入り,
直談判をしに東京へ行き,2ヶ月の大阪での同じ業界の別会社での無給のインターンを経て,
そして数日ではあるがそのプロデューサーと一緒に働けた.
(最終的にそこで満足し,今後何を目標にして生きたら良いのか分からなくなり,
途方もない虚無感に陥ったのだが.)
しかし虚像の目標にしろ,その目標へ向かって不断の努力をしている時,
最も人間として生き,“幸せ”を感じた.
親に認められたい一心で中学受験勉強に取り組んでいる時より,
世間体を気にして作った彼女と過ごしている時より,
快楽のためにバイトでお金を稼いでいる時より,
何より幸せであった.

 

幸せとは何なのか.この数ヶ月,自分の幸せを定義するため,
哲学書,自分との共通点が多い作者のエッセイ,主人公が描かれた小説を読み漁った.

そして,上記で述べた過去に感じた幸せと,
数ヶ月間読み漁った哲学書,エッセイ,小説から知り得た哲学を照らし合わせ,
自分の幸せの形を導き出した.
「自己の地位や名誉,お金のためではなく,
他者のために長期的な価値を生み出し,他者からそして自己から認められる.」
というのが抽象的ではあるが,恐らく自分の幸せである.
しかし,現在の自分には,とても“他者”のために生きるなんて無理な話だ.

なぜなら,私は自分の利益,欲求だけを考え満たしている圧倒的なエゴイストであるからだ.
研究室での鈴木雄也を例として挙げてもそうである.
買い出し担当の私はこれまで無地であったHelloのティッシュを
動物好きという自分勝手な理由で黄色の鳥がパッケージされているもの,
そしてキレイキレイの詰め替えもフローラルソープの香りから自分の好きなレモンの香りに変えた.

そして何より“承認欲求”が強い.
ものすごく賢かった小学校時分,
小学校という一つの社会で勉強家として役割を果たしていたのを覚えている.
社会から要請された役割を果たさないと,人から必要とされない,
存在を認識されないと子供心に感じていた.
他の勉強家と差異化するため,より役割を固化した.
そのためにどんな手段も厭わなかった.
図書館で本を読むという授業で,読みたい児童向け小説ではなく,
学問書や辞書を読んでいたのは,今でも鮮明に覚えている.
その後,中学へ上がり勉強をしなくなり,
勉強家としての役割はもう演じられなくなったその時でさえも,
承認欲求を満たすがために唯一残された選択肢であろう“ピエロ”を演じた.
これは,大学生の今でも続いている.
これまでの人生,他者の為には行動しないが,
他者に認められたい困ったエゴイストちゃんであるのだ.コラコラ.

このように自己の幸せだけを考え,他者のために行動したことがない.

しかし,幸せになるには,他者のために行動しなくてはならない.
が,私には圧倒的なエゴイズムがある.しかし,幸せになるためには,他者のたm...
エンドレス.

 

 

主体的に生きねばならない.人間として生きるために.
人間として生きるという目標へ向かって,一つの手段を考え出した.
それはお寺での修行である.
3/3から22日間,臨済宗のお寺で修行することに決めた.
これは,曖昧模糊な自己の真理,幸せをより深い理解する,
そして他者への幸せを願い,行動する
という目標に対して,主体的な行動と言っても良いだろう.
これまで知識という“有”から自分の真理を考えていたが,
坐禅から得られうる“無”から考えることも必要だと考えたのだ.
また主体的に生きるにあたって,自己を律するということも大事であり,
それもまた,修行から学ぶことができると期待している.

そして,もう一つお寺で修行をする大きな理由がある.
それは贖罪である.
大きく分けて罪は二つ.
一つ目は時間泥棒である.
主体的に生きなかった弊害でポスターや原稿の作成において,
論理を考え詰めるということができなかったと思う.
そのせいで先生方,先輩方,そして,MTの時間を共有した同期の時間を奪ってしまった.
この罪は実に重い.調べたところ,時間を奪うことを罰する法律は不思議なことにないのだ.
刑務所で罪を償うことができない.だから,修行という手段で罪を償う他にない.
そして,もう一つの罪は,
実生活において(そして上記までも)自分の醜悪な真実の姿を告白し,
その存在を認めてもらおうとしたこと.
人間というものは精神と肉体があり,それらは分離して存在している.
ありがたいことにその精神が具現化して肉体を形作っているわけではない.
だから,その精神を肉体という仮面で覆い隠すことができる.
しかし,私は自己の醜悪な真実の姿を外にさらけ出し,
その存在を認識してもらおうとしたのだ.
自分への期待のハードルを下げるために自ら弱みを告白してきた.
ピエロを演じ慣れたせいで,プライドは微塵もなく,容易く告白できた.
それによって,自分へ抱かれていた好印象を殺してしまった,
他者は騙された気分になっていただろう.
これも残念ながら刑務所で償えない.

罪を償い,人間として生きる.それが修行をする目的である.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間として生きることはできるだろうか.
人間になり得ない気がする.
生物学上,人間なだけだろう.

ああ.やはり人間ではないだろう.
学会後,マスクをつけ,マフラーをきつく締めたのは,殻に籠りたかったのだ.
さなぎになりたかったのだ.
醜い姿からさなぎになって,心身共に生まれ変わって絢爛たる蝶になるために.
心身共に醜すぎて,蛾になるかもしれないが.
やはり,人間ではないだろう.
社会的動物であるにかかわらず,群居性もなく,主体性もなく,考えるということもしない.
人間ではない.動物なのだ.
だから,飽き性な性分にも関わらず,幼い時分から大学まで,ずっと動物が好きなのだろう.
親近感を抱いているのだ.確実に鈴木雄也は,動物である.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう.動物なのである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物だ.

 

 

 

 

 

 

しかし,今までこの醜い虎に
“愛“を持って温かく接してくれた方々に感謝の念が生じるのは,
やはり人間であるからなのか...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年度 JSiSE学生研究発表会